中村雨紅先生の略歴

ページ番号1004808  更新日 令和4年3月8日

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夕焼け小焼けの塔の説明
作詞者 中村雨紅先生の略歴

  • 明治30年2月6日、高井宮吉(本名)、東京府南多摩郡恩方村上恩方の宮尾神社境内社務所にて、生まれる。
  • 大正5年 東京府立青山師範学校卒業、日暮里町第二日暮里小学校へ奉職
  • 大正6年 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる。(大正12年養子縁組解消)
  • 大正7年 日暮里町第三日暮里尋常小学校着任(大正13年3月まで)、第三日暮里小学校の児童の情操教育のために、同僚の訓導矢沢先生らとともに回覧文集を始め、童話の執筆を始めた。
  • 大正8年 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載された。しかし、教案を書く邪魔になると校長に叱られ、以後、道を歩きながらでも考えられる童謡執筆に専念するようになった。 野口雨情と出会う。その後、中村雨紅の筆名をもって、童謡を発表した。この筆名は、野口先生の名前から「雨」の一字をもらい、「染まる」という意味の「紅」をつけて雨紅としたのである。名曲「夕焼け小焼け」の詞もこの頃の作である。
  • 大正12年 漢学者、本城間停の次女、千代子と結婚、根岸の「お行の松」の裏手に住む。 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載された。この名曲は、武蔵野音楽大学校長の福井直秋先生の依頼を受けて渡した詞に、作曲者草川信先生によって曲がつけられて誕生した。ほどなく、関東大震災のため、多くの楽譜が失われた。焼け残った13部の楽譜を元に「夕焼け小焼け」は歌い広がっていった。
  • 大正13年 板橋尋常高等小学校への転任。
  • 大正15年 滝野川高等小学校着任。
  • 昭和元年 神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)着任。
  • 昭和24年 神奈川県立厚木東高等学校依願退職、教職を終える。
  • 昭和31年 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われた。 以後、雨紅ゆかりの各地にて「夕焼け小焼け」の歌碑が建てられている。
  • 昭和47年 雨紅病院入院の報に、全国から見舞い、激励の手紙が寄せられたが、回盲部腫瘍のため逝去した。(享年75才)

写真:夕焼け小焼けの塔

若き中村雨紅先生が本格的に童話・童謡創作活動を開始し、「夕焼け小焼け」等を作詞したのは、第三日暮里小学校に勤務されていたころです。この縁を喜びとして、昭和59年、第三日暮里小学校の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられてました。